東京都豊島区千早2-27-6
TEL 03-3957-3779
山形県天童市老野森1-2-2
TEL 023-654-6300
愛知県名古屋市東区東桜1-13-2
愛知芸術文化センター10階
TEL 052-971-5511
東京国立近代美術館 | 東京都千代田区北の丸公園3-1 | TEL 03-5777-8600(ハローダイヤル) | |
茨城県近代美術館 | 茨城県水戸市千波町東久保666-1 | TEL 029-243-5111 | |
岐阜県美術館 | 岐阜県岐阜市宇佐4‐1‐22 | TEL 058-271-1313 | |
埼玉県立近代美術館 | 埼玉県さいたま市浦和区常盤9-30-1 | TEL 048-824-0111 | |
静岡県立美術館 | 静岡県静岡市駿河区谷田53-2 | TEL 054-263-5755 | |
豊田市美術館 | 愛知県豊田市小坂本町8-5-1 | TEL 0565-34-6610 | |
ポーラ美術館 | 神奈川県足柄下郡箱根町仙石原小塚山1285 | TEL 0460-84-2111 | |
メナード美術館 | 愛知県小牧市小牧五丁目250番地 | TEL 0568-75-5787 |
1880年 | 明治13年 | 4月2日、岐阜県恵那郡付知村(現・中津川市付知町)に事業家・熊谷孫六郎(1832-1902)の三男、第七子として生まれる。 | |
1883年 | 明治16年 | 3歳 | 祖母や母と別れ、父のいる岐阜市内の邸宅に移される。父の経営する熊谷製糸工場に隣接する広大な家には、二人の妾と大勢の異母兄弟が暮らしていた。 |
1886年 | 明治19年 | 4月、岐阜県尋常小学校に入学。学校の庭にある木から、葉っぱがばたっと落ちるのが面白くて外ばかり眺めていた。 | |
1889年 | 明治22年 | 9歳 | 岐阜に市制が実施され、父・孫六郎が初代岐阜市長になる。 |
1891年 | 明治24年 | 11歳 | 濃尾地震に遭う。岐阜県下全戸数の52%が全半壊となる大地震であり、友人も多く亡くす。 |
1892年 | 明治25年 | 12歳 | 父・孫六郎が衆議院議員に当選。この頃より水彩画を描くようになる。 |
1894年 | 明治27年 | 14歳 | 4月、岐阜県岐阜市尋常中学校に入学。 |
1897年 | 明治30年 | 17歳 | 上京。芝公園のなかにある正則中学に転校するが、英語が苦手であったことから築地のサマーズ英語学校に通う。しかし、絵描きとなりたい気持ちが膨らみ、上京してきた父に「絵をやりたい」と切り出す。 跡取りにと考えていた父は反対するが「もし慶応義塾に一学期真面目に通ったら、お前の好きなことをしてもいい」という言葉を受け、慶応義塾中等部普通科2年3学期に編入し、1学期だけ通い、絵の道の許しを得る。 |
1900年 | 明治33年 | 20歳 | 共立美術学館の向かいにあった東京帝国大学工科大学にて、知人の紹介で石膏像デッサンを独学。同年、東京美術学校西洋画科撰科に入学。 |
1902年 | 明治35年 | 22歳 | 6月、夏休みを利用した徒歩の写生旅行に出かける。鳥沢までは汽車に乗ったものの、あとは徒歩で信濃、北陸、東北地方を巡る。 9月、都内に戻る。旅行中に父が脳卒中で急死していたことを知らされるとともに、父が残した莫大な借金を背負う。これを機に、下谷区入谷(現・台東区入谷)の借家で友人5人と共同生活を始め、「入谷の五人男」と呼ばれる。 |
1904年 | 明治37年 | 24歳 | 東京美術学校を首席卒業。その後も3年間は研究科に残る。 |
1905年 | 明治38年 | 25歳 | 農商務省の樺太調査団に記録画家として参加、報告書用のスケッチを描く。翌年も参加。 |
1908年 | 明治41年 | 28歳 | この頃、終生の友となる作曲家・信時潔と出会う。 |
1909年 | 明治42年 | 29歳 | 第3回文展で《蝋燭(ローソク)》が褒状を受ける。本作品は、当時帝大生で後に広島県知事などを歴任する湯澤三千男が購入する。 |
1910年 | 明治43年 | 30歳 | 10月、実母危篤の知らせに帰省する。母の死後も付知にとどまり、以後約5年間を同地で過ごす。滞在中に制作した作品は《父の像》《母の像》《甥》《馬》の4点のみ。 |
1913年 | 大正2年 | 33歳 | 付知の山中で伐採された木材を、筏を組めるようになる下流まで搬送する日傭(ひよう)の仕事に就く。この年と翌年のふた冬、この仕事に従事した。 |
1915年 | 大正4年 | 35歳 | 再上京。この頃より、画家仲間の斎藤豊作から毎月金銭支援を継続的に受ける。この支援は斉藤が渡仏する1920年まで続いた。暮れから翌年にかけて、柳敬介らと群馬県の赤城山に写生旅行に行く。 |
1916年 | 大正5年 | 36歳 | この頃より音楽仲間との交流が深まる。自らもチェロやヴァイオリンを独学で弾き始め、しばし夜通し音楽について語り合った。 |
1920年 | 大正9年 | 40歳 | 「Akagi」を作曲。 |
1922年 | 大正11年 | 42歳 | 紀州南部町の地主・大江為次郎氏の次女・秀子(24歳)と結婚。 |
1923年 | 大正12年 | 43歳 | 長男・黄、誕生。9月、関東大震災に遭う。この頃、懐中時計の修理や音の振動数の計算に熱中する。 |
1925年 | 大正14年 | 45歳 | 次男・陽、誕生。湯河原(神奈川県)、塩原(栃木県)へ行く。 |
1926年 | 大正15年 | 46歳 | 長女・萬、誕生。貯金が底をつき、熊谷家の生活は困窮を極める。 |
1928年 | 昭和3年 | 48歳 | 次男・陽が肺炎で急死する。死の床に横たわる陽の顔を描く。 |
1929年 | 昭和4年 | 49歳 | 次女・榧、誕生。二科技塾が開設され、安井曾太郎、有島生馬、石井柏亭らとともに週1回、約10年間指導する。 |
1931年 | 昭和6年 | 51歳 | 三女・茜が誕生する。 |
1932年 | 昭和7年 | 52歳 | 三女・茜が病死する。暮れに、豊島区長崎町(現・豊島区千早)に自宅を新築して転居し、以後、生涯をこの家で過ごす。 |
1933年 | 昭和8年 | 53歳 | 《蝋燭》の所有者である広島県知事・湯澤三千男に、有島生馬、小杉放庵らとともに、広島へ招待され写生を行う。 |
1935年 | 昭和10年 | 55歳 | 守一に関する初めてのまとまった特集が『中央美術』2月号で組まれる。 |
1936年 | 昭和11年 | 56歳 | この頃から赤い輪郭線を用いるようになる。 |
1937年 | 昭和12年 | 57歳 | この頃は二科美術研究所の生徒や画家仲間と年3度ほどスケッチ旅行に出かける。また、浜田葆光に勧められ、日本画を描き始める。 |
1938年 | 昭和13年 | 58歳 | 2月、「熊谷守一・野間仁根作品発表二人展」(銀座・日動画廊)開催。5月、日本画の初個展「熊谷守一新毛筆画招待展観」(奈良東大寺赤門、上司海雲方)開催。6月、「洋画家 熊谷守一先生日本畫展」(大阪・阪急百貨店)開催。 7月、「藤田嗣治・野間仁根・熊谷守一日本画三人展」(銀座・日動画廊)開催。 12月、「熊谷守一先生 新毛筆畫展覧會」(丸善名古屋市支店)開催。 名古屋展で後に熊谷守一の重要なコレクターとなる木村定三に出会い、大阪での日本画展も成功し、ようやく画壇で注目されるようになる。 この頃、コレクター山本發次郎は佐伯祐三の蒐集をひと段落し、熊谷守一の作品を蒐集しはじめる。しかし、守一はよい絵を描きながら自分より困窮している原勝四郎を紹介し、山本は原勝四郎を応援することとなる。 |
1939年 | 昭和14年 | 59歳 | 3月、「熊谷守一・中川紀元新作二人展」(銀座・日動画廊)開催。 |
1940年 | 昭和15年 | 60歳 | 伊豆(静岡県)や信州に行く。3月、「熊谷守一画伯近作油絵展」(銀座・日動画廊)開催。12月、「熊谷守一先生 新毛筆畫展覧装會」(丸善名古屋市支店)開催。 8月、第27回二科展で「熊谷守一生誕六十年記念特別陳列」が行われ、明治大正昭和期の作品41点による展示で注目を浴びる。 |
1941年 | 昭和16年 | 61歳 | 北川民次・横井礼市とともに、愛知県瀬戸市へ行き、陶器の絵付けをする。 |
1942年 | 昭和17年 | 62歳 | 『熊谷守一畫集』(熊谷守一畫集刊行会)刊行。12月、「熊谷守一近作油絵展」(大阪・天賞堂画廊)開催。 友人に誘われて信州へ行く。この頃、山形出身の実業家・村山祐太郎(37歳)が熊谷家を訪問、以降守一作品を蒐集するようになる。 |
1943年 | 昭和18年 | 63歳 | 4月、「熊谷守一・岸田劉生・武者小路実篤三人展」(名古屋・後藤版画店)開催。7月、「熊谷守一・林倭衛・野間仁根日本画展」(銀座・日動画廊)開催。 |
1944年 | 昭和19年 | 64歳 | 二科会、戦時のため解散。 |
1944年 | 昭和20年 | 65歳 | 3月、長女・萬、肺結核で寝込む。戦争では空襲に見舞われるが自宅は焼け残る。11月、二科会が再建されるが、守一は参加せず |
1946年 | 昭和21年 | 66歳 | 秋、腎盂炎のため1ヶ月入院。 |
1947年 | 昭和22年 | 67歳 | 4月、旧二科会の黒田重太郎、鍋井克之、正宗得三郎などが「二紀会」を結成したのを機に同会に加入。第1回第二紀会展に参加。長女・萬、肺結核のため死去。 |
1948年 | 昭和23年 | 68歳 | 5月、「熊谷守一近作展」(日本橋・丸善)開催。夏、雑誌『心』が創刊され、武者小路実篤や志賀直哉の推薦で同人になる。守一は同誌に度々カットを描いており、油彩画、水墨画、書なども紹介される。 |
1951年 | 昭和26年 | 71歳 | 梅原龍三郎が《猫》を購入する。第5回第二紀会展出品後、会員を辞し、団体展を離れる。 |
1952年 | 昭和27年 | 72歳 | 雑誌『心』に『ピカソは分りいい』が掲載される。 |
1953年 | 昭和28年 | 73歳 | 4月、「画家のアトリエ熊谷守一展」(資生堂画廊)が美術批評家・今泉篤男の企画で開催される。長男・黄、信時潔の長女・はると結婚。 |
1955年 | 昭和30年 | 75歳 | 雑誌『心』に志賀直哉、大原總一郎、中川一政との座談会「虫と鳥の話」が掲載される。この頃からデパートでの展覧会への出品が増える。 |
1956年 | 昭和31年 | 76歳 | 雑誌『心』に「大牛仔牛<安井曾太郎追悼>」を発表。この頃、軽い脳卒中の発作を起こし、以後ほとんど自宅から外出しなくなる。 |
1960年 | 昭和35年 | 80歳 | 7月、「熊谷守一油絵個展」(日本橋画廊)開催。「熊谷守一新作日本画展」(日本橋・粟津画廊)開催。 |
1961年 | 昭和36年 | 81歳 | 2月、『熊谷守一画集』(熊谷守一刊行会編/美術出版社)刊行。この頃より画廊主催のグループ展への出品も増える。 |
1962年 | 昭和37年 | 82歳 | 4月、戦後最初の大規模な「熊谷守一展」(主催:日本経済新聞社、会場:日本橋・白木屋)が開催される。 |
1963年 | 昭和38年 | 83歳 | ダビッド・エ・ガルニエ画廊(パリ)のフィリップ夫妻の訪問を受ける。 |
1964年 | 昭和39年 | 84歳 | 5月、ダビット・エ・ガニエル画廊(パリ)で「熊谷守一展」(油絵48点、日本画15点)を開催。同年、『芸術新潮10月号』に「日本的な画家・ブラック」を発表。 |
1966年 | 昭和41年 | 86歳 | 5月、「熊谷守一近作展」(新宿・京王梅田画廊)開催。「熊谷守一鑑賞賞」(名古屋・オリエンタル中村百貨店)開催。10月、「熊谷守一展」(主催:岐阜県教育委員会、岐阜県立図書館)開催。「熊谷守一水墨回顧展」(名古屋・丸栄百貨店)開催。 |
1967年 | 昭和42年 | 87歳 | 2月、「米寿を祝って熊谷守一近作展」(銀座・ギャラリーポワン5丁目店)開催。10月、『熊谷守一画集』(一柿木版社)刊行。文化勲章内示を辞退する。 |
1968年 | 昭和43年 | 88歳 | NHK教育テレビ「この人と語る」に出演。 |
1969年 | 昭和44年 | 89歳 | 5月、「生誕90年記念 熊谷守一展」(主催:毎日新聞社、大阪心斎橋・大丸百貨店)開催。5月、『熊谷守一作撰種集』(日本経済新聞社、木村定三編集)刊行。 |
1970年 | 昭和45年 | 90歳 | 10月、「熊谷守一展」(神奈川県立近代美術館)開催。 |
1971年 | 昭和46年 | 91歳 | 日本経済新聞の『私の履歴書』において29回連載が掲載される。これをまとめた『へたも絵のうち』が同社より11月に刊行される。 |
1972年 | 昭和47年 | 92歳 | 1月、「へたも絵のうち 画業70年・熊谷守一展」(主催:日本経済新聞社、会場:渋谷・西武百貨店)開催。勲三等叙勲内示を辞退する。 |
1974年 | 昭和49年 | 94歳 | 『熊谷守一画集』(日本経済新聞社)刊行。 |
1975年 | 昭和50年 | 95歳 | 3月、「日本の心 熊谷守一・九十五歳記念展」(主催:毎日新聞社、新宿・伊勢丹)開催。 |
1976年 | 昭和51年 | 96歳 | 2月、随想集『蒼蠅』(求龍堂)刊行。6月、故郷付知町に「熊谷守一記念館」開館。9月、「超俗の巨匠・画業八十年 熊谷守一展」(主催:毎日新聞社、大阪・梅田近代美術館)開催。11月、「熊谷守一展」(岐阜県博物館)開催。 |
1977年 | 昭和52年 | 97歳 | 8月1日、肺炎のため逝去。 |